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障がい福祉事業の生産性向上とM&Aの関係性
― 生産性向上をどう捉えるかが成功の分かれ道 ―

2025.10.23
障がい福祉事業の生産性向上とM&Aの関係性― 生産性向上をどう捉えるかが成功の分かれ道 ―

はじめに

介護・障がい福祉の現場では、人材不足や報酬改定、利用者数の伸び悩みといった構造的課題が続いています。こうした中で「生産性向上」は、事業の存続と成長を左右する最重要テーマとなっています。
一方で、近年は後継者不在や採用難、経営体力の格差を背景に、M&A(事業譲渡・譲受)を通じて経営の持続を図る動きも活発化しています。
しかし、事業統合が進むと、職員の考え方や組織文化、これまでの体制が異なるため、「生産性向上」の内容や方向性が一致しないことがあります。どのような観点で生産性向上に取り組んでいるのかを相互に理解し、統一していくことが今後の重要な課題です。
とはいえ、両者を安易に結びつけるのは危険です。生産性向上は“M&Aのため”ではなく、“現場をより良くするため”に行うべきものであり、M&Aはその結果として実現するものです。本稿では、この二つの関係性を整理していきます。

第1章 M&A時代に求められる生産性向上 ― “数字”より“人”を軸にした現場改革 ―

介護・障がい福祉分野における「生産性向上」とは、単なる“効率化”や“コスト削減”を意味するものではありません。
現場で生産性向上を検討する際、多くの場合は「ムリ・ムダ・ムラの削減」「業務時間の短縮」「事務負担の軽減」といったテーマが挙げられます。仕事の実際の負担と心理的な負担感を減らすことは目に見える成果です。しかし、それらはあくまで“手段”であり、“最終目的”は利用者にとってのサービスの質を高めることにあります。

たとえば、職員の作業時間を削減し、その分を利用者への声かけや観察、記録の質向上に充てることで、支援のきめ細かさが増し、結果的にサービス全体の質が向上します。こうしたサイクルを生み出すことこそが、本来の「生産性向上」です。

● 現場で進む具体的な取組み

近年では、次のような実務的な改善が各地で広がっています。

  • ICT・DX導入:記録・請求・勤怠管理をクラウド化し、入力作業を効率化。二重入力や転記ミスを削減。
  • 業務標準化:支援記録や計画書の様式を統一し、教育・引継ぎの負担を軽減。
  • 役割再設計:支援員が利用者支援に専念できるよう、請求・備品管理・シフト調整を事務職や本部が分担。
  • 情報共有の仕組み化:チャットツールやクラウド日報を活用し、口頭伝達の漏れを防止。

これらの取組みは、単なる「作業時間の削減」や「業務効率化」にとどまるものではありません。
削減した時間をどのように活かすか――つまり、利用者と向き合う時間や職員間の連携時間に再配分できるかどうかが、生産性向上の本質です。
たとえば、介護記録をタブレット化したある事業所では、記録作成時間が大幅に短縮され、職員が利用者とのコミュニケーションや観察により多くの時間を割けるようになりました。結果として、支援の質が高まり、職員の満足度が向上します。
このように、時間の削減ではなく「価値の再配分」こそが真の生産性向上といえます。

【生産性向上のイメージ】
生産性向上のイメージ
出典: 障害福祉サービス事業所のICTを活用した業務改善ガイドライン

● 「数字だけの生産性向上」が招く落とし穴

一方で、注意しなければならないのが「数字だけの生産性向上」です。
目先の効率化やコスト削減が目的化すると、現場では次のような問題が生じかねません。

  • 「人が足りないのに仕事量だけ増えた」
  • 「評価が数字でしか判断されない」
  • 「人員削減の口実として“生産性”が使われている」

このような状態では、職員の士気が下がり、サービスの質が低下します。本来の生産性向上とは、“人を減らすこと”ではなく、「人が力を発揮できる環境をつくること」です。経営側がこの視点を持たなければ、改善は現場への負担増に転化してしまいます。
特にM&A後の統合では、この誤解が顕著に表れます。
「効率化」だけが先行し、現場文化や支援スタイルの違いを無視すると、サービスの質が下がり、職員の不満に繋がり、離職を招くリスクがあります。

● “人を中心とした改善”の重要性

真の生産性向上を実現するには、現場の声を聞き、職員とともに改善策を考える姿勢が欠かせません。
たとえば、月1回の「業務改善ミーティング」を設け、現場からの提案を本部が検討・採用する仕組みを整えた事業所では、平均残業時間が減少し、職員のモチベーションも向上しました。現場が自ら改善を進めることで、制度への納得感が生まれ、組織全体の一体感も高まります。経営者や管理者は、数値では測れない「職員の働きやすさ」や「利用者との信頼関係」といった要素も含めて、生産性を捉える必要があります。
「誰のために、何を良くするのか」という問いを常に持ち続けることが重要です。最終的に、生産性向上とは“人を大切にする経営”の延長線上にあります。数字のための効率化ではなく、職員の働きやすさを支え、利用者により良いサービスを提供するための仕組み改革として取り組むこと。この原則を軸に据えた改善こそが、介護・障がい福祉事業の真の持続性とM&A後の成功につながります。

第2章 譲渡側・譲受側で異なる生産性向上の視点

これまで「生産性向上」についてお伝えしましたが、実際に事業承継やM&Aの場面になると、この“生産性向上”が誤った形で進められてしまうケースも少なくありません。
M&Aでは、譲渡側(売り手)と譲受側(買い手)とで、生産性向上の目的やアプローチが異なります。この違いを理解せずに同じ基準で「効率化」だけを進めてしまうと、現場の混乱や職員離脱、サービスの質の低下を招くおそれがあります。
ここからは、M&Aの現場で特に注意が必要となる「譲渡側」と「譲受側」それぞれの視点から、生産性向上の留意点について整理していきます。

● 譲渡側の視点

譲渡を検討する事業者にとって、生産性向上は「事業を整えること」です。整理された経営体制は譲受側にとってのリスクを減らします。

譲渡前に確認すべきポイントは主に次の通りです。

  • 業務プロセスの標準化:属人化業務をマニュアル化し、引継ぎを容易にする。
  • 課題の見える化:現状の不満や課題を抽出する。
  • 経営データの整備:収支・稼働率・加算状況を可視化する。
  • 職員体制の安定化:離職率を下げ、継続勤務者を育成する。
  • 利用者との信頼関係:事業譲渡後も利用が継続される関係性を維持する。

これらの整備により、譲受側は安心して引き継ぐことができ、交渉条件も有利になります。
ただし、「譲渡を目的にした過度な効率化」は禁物です。急激な変革は現場負担を増やし、結果的に職員離脱やサービスの質の低下を招く危険があります。

● 譲受側の視点

譲受側にとっての生産性向上は、「職員が納得感をもって働ける環境を作ること」です。制度・文化・システムの違いをどう吸収し、グループ全体の効率化を実現するかが課題です。
たとえば、勤怠・給与・請求などのシステムがバラバラであることで、慣れるまでに時間がかかり、問題となるケースもあります。また、職員の賃金体系や管理会計の基準が異なり、統合に時間がかかるケースも多いです。
ある法人では、M&A後3か月間を「観察期間」として現場体制を維持し、半年後にクラウド勤怠を導入しました。その結果、1年後に本部経費率が改善し、離職率も低下しました。スピードより納得感を重視した統合が功を奏した例です。
つまり、譲受側の生産性向上は「早く統合する」ことではなく、「現場を理解して整える」ことにあります。現場との対話を軸に据え、改善提案を吸い上げることで、統合後の安定と成長を実現できます。

イメージ

第3章 生産性向上とM&Aを両立させるポイント

1. 目的の明確化

生産性向上を「M&Aのため」に進めると、数値管理ばかりが先行し、現場の信頼を失います。
逆に、「M&Aを生産性向上のきっかけにする」と捉えれば、現場改革のチャンスとなります。
どちらが目的でどちらが手段かを常に意識することが、経営判断の軸になります。

2. デューデリジェンスで“仕組み”を評価

M&Aの際には財務だけでなく、

  • 記録・請求・勤怠の電子化率
  • シフトや残業の管理状況
  • 職員教育や情報共有体制

など、現場レベルの生産性指標を確認することが重要です。
最近では、「見える化された経営」ほど安心できる案件として考えられます。
数字より“人が動ける仕組み”を重視する姿勢が、買収後の成功を左右します。

3. 統合は「スピード」より「納得感」

統合プロセスでは早期の制度統一よりも、現場職員が納得できる進め方を優先すべきです。トップダウンで一方的に改革を進めると、「上からの指示」と受け取られ協力が得られません。現場リーダーやサービス管理責任者を巻き込み、ボトムアップ型の改善文化を築くことが成功の鍵です。

まとめ

介護・障がい福祉における生産性向上は、

  • 譲渡側にとっては「事業を整えること」、
  • 譲受側にとっては「職員が納得感をもって働ける環境を作ること」、

この二つの視点が欠かせません。
効率化の名のもとに現場を疲弊させてしまえば、職員は離職し、サービスの質も低下します。本当に求められるのは、「人を守り、仕組みで支える経営」です。

具体的な進め方を検討する際には、厚生労働省が公表している
「障害福祉サービス事業所のICTを活用した業務改善ガイドライン」が参考になります。
そこには、ICT導入による業務効率化の実例や、職員の関与を得ながら改善を進めるプロセスが示されています。
現場の課題を基点に据え、数字ではなく“人”を中心に据えた生産性向上を進めることこそ、これからの介護・障がい福祉経営の持続的な成功につながるといえるでしょう。

参考: 平成 31年度 厚生労働省障害者総合福祉推進事業 障害福祉サービス事業所における 生産性向上に関する調査研究

ライター紹介
石川敦士氏
石川 敦士氏
日本クレアス税理士法人 大阪本部日本クレアス税理士法人 大阪本部
HP:https://j-creas.com/